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科学的な死生観!

執筆者の写真: Hirokazu KobayashiHirokazu Kobayashi

更新日:2024年10月9日

小林裕和

(株)グリーン・インサイト・代表取締役/静岡県立大学・名誉教授・客員教授

 

何方も親の最期には立ち会いたいと思うであろうが、テレビドラマの臨終シーンのように、言いたいことだけ言って息を引き取るものであろうか? 死因にもよるが、答えは ”No” のようである。私の場合、父母共に京都府福知山市の老人ホームでお世話になっていたが、昨年、父そして引き続き母が他界した。死因は共に老衰であった。長男である私は静岡市に住んでおり、仕事もあるため直ぐには駆けつけられなかった。終末期ケアの専門家によると、以下のように理解されている。亡くなる数時間~数日以内に出現する可能性が高い徴候として、呼吸・循環・血圧に現れる変化、乏尿もしくは無尿、死前喘鳴など。この間に本人の意識は次第に遠のいていくようだ。

 

死がどのようなものであるかは、臨死体験者から聞くことができる。亡くなった親族が呼んでいたとか天国のお花畑が見えたとかなど。これを説明できる実験的証拠がある。ラットの実験では、死期に脳内ホルモンであり幸福を感じさせるエンドロフィン濃度が上がる。また、ヒトの場合、心臓が脳への血液供給を停止する数秒前、患者の脳波には、集中したり、夢を見たり、記憶を思い出したりするなど、認知能力の高い作業を実行するときと同じパターンが観察されている。これらの現象は血中の酸素濃度の低下と連動しているように思われる。エンドロフィンはランニング・ハイの現象でも知られており、死の間際や過度な酸素消費時に幸福感を引き起こすと考えられる。すなわち、死の瞬間は苦痛を伴わないようである。医者に聞く苦しい死因ランキングというものがある。これによると一番苦しいのは、膵臓癌。その逆が老衰となっている。これは死の瞬間ではなく、それに至る過程でのことである。

 

昨年夏、義母も亡くなった。103歳の長寿であった。彼女は無神論者だが、死後は医学に役立ちたいとの意向。それに従った。静岡県では献体は浜松医科大学のみが受け入れている。年間100体余りの遺体が集まり、その9割が医学部生の解剖学実習、残りに1割が外科医のCST (cadaver surgical training: 死体解剖手術トレーニング) に使われる。前者に対して、後者は低濃度ホルマリンで固定される。静岡県の年間死亡者は約46,000人なので、約0.22% (1/450) がこのように献体されることになる。人類は、古来より人体には魂が宿り、死後も魂は生き続けると考える。したがって、魂が宿る人体をミイラなどとして残す風習がある。一見これに反しているが、解剖学実習に使われた後遺骨として遺族に届くため、献体しない一般的な葬儀と結果的には変わらない。すなわち、献体は科学研究・教育に役立つと言う人生最後の社会貢献の1つと言える。


自分の死に対して、恐怖を感じない人はいないであろう。その対処方法が、宗教である。どの宗教も死後の世界が語られる。これを信じれば、安堵感が得られる。死後を 「無」 とする宗教観もあり、これは宇宙物理学に繋がる。138億年前に宇宙は無から始まり、膨張し続けているが、ニュートリノに質量があると言うことは、やがて収縮に転じ、最後は無に戻ると言う。宗教に懐疑的な方も、このような死生観なら受け入れられよう。




 

 
 
 

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