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  • 執筆者の写真Hirokazu Kobayashi

タイ国にシンパシー!

更新日:4 日前

小林裕和

(株)グリーン・インサイト・代表取締役/静岡県立大学・名誉教授・客員教授

 

誰にでも気が合う人とそうでない人がいるものだ。これは外国人に対してもそうであるが、その場合はお国柄がさらに加わる。私がシンパシー (共感) を感じるのは、タイの国民性だ。研究成果は世界中で共有されるため、英語での研究発表は言わずもがな。世界各地で開催される学会への参加に加えて、短期から長期に渡り海外で研究に取り組むことを多くの研究者が体験する。すなわち研究者は世界レベルで繋がっている。私が、アメリカ合衆国での博士研究員 (ポストドック) を終えて、名古屋大学に職を得て最初に研究を指導したのが、タイ国からの留学生である。彼女は私が知る限り他のどの研究者よりも実験がうまかった。それは個人の資質であるが、さらに人間関係が日本的で疲れなかった。彼女はタイ国の最高学府であるチュラロンコン大学の卒業生だ。すなわち知識も英語力も申し分なかった。彼女は日本で博士学位を取得後、タイ国のこれまた屈指のマヒドン大学に勤めた。その後、彼女の印象がよかったので、彼女にお願いしマヒドン大学からの留学生を静岡県立大学で受け入れた。この留学生も優秀であり、性格が日本に馴染んだように思えた。

 

タイ国に抱くシンパシーはどこから来るのだろう。第一に挙げられるのは、タイ国は日本と同じ仏教国。日本人には自分を仏教徒と思っていない人が多いが、仏教が歴史と文化に大きく影響を与えている。礼儀正しさや他人への畏敬の文化が根付いており、タイ国では 「ワイ」 という合掌の挨拶。一方、日本ではお辞儀という違いはある。第二に、このような文化が維持されてきた背景として、共に西欧の植民地にならなかったことが挙げられる。タイ国 (当時:シャム) は、イギリスが支配するビルマ (現:ミャンマー ) とフランスが支配するインドシナ (現:ベトナム、カンボジア、ラオス) の間に位置した。したがって、イギリスとフランスの間での 「緩衝国」 として機能し、どちらの国もシャムを直接支配するより独立した状態に保つ方が得策だと考えたのだろう。また、シャムの指導者たち、特にラーマ4世 (モンクット王) とラーマ5世 (チュラロンコン王) は、巧妙な外交手腕を発揮した。なお、ラーマ4世はミュージカル 「王様と私」 のモデルとしても有名。彼らはイギリスとフランスの間でバランスを保つ政策を取り、それぞれの国と条約を結んでシャムの独立を維持した。第三に、食文化の共通性。両国ともに米が主食で、タイ料理と日本料理はそれぞれ独自の特色を持っているが、新鮮な食材と調理法へのこだわりが共通。

 

タイ国 (旧:シャム) と日本には、太い交流の歴史がある。1400年代〜1500年代、日本とシャムとの貿易が盛んになった。シャムからは香料、象牙、絹製品などが日本に輸出され、日本は刀剣や銀などをシャムに輸出した。その後、豊臣秀吉の時代 (1583年〜) から朱印船貿易が行われ、日本の商人がシャムに進出した。取り分け、シャムのアユタヤ王朝との交流が深まり、日本人街がアユタヤに形成された。最盛期には1,500人以上の日本人が居住したと言われる。その中の一人山田長政は、貿易商として才覚を発揮した。引き続き、アユタヤの日本人傭兵部隊の隊長として頭角を現し、アユタヤの宿敵ビルマとの戦いで功績を上げる。これにより、宮廷の信頼を得た長政とその傭兵隊は、王の護衛隊まで務めるようになり、1629年アユタヤ王朝配下のリゴールの国王にまで上り詰めた。その後近代に入り、1900年、仏舎利 (釈迦の遺骨) がラーマ5世から日本国民へ寄贈された。この奉安場所として、1904年名古屋市に覚王山日暹寺 (にっせんじ) が創建され、1949年シャムのタイへの最終的な改名に合わせて 「日泰寺 (にったいじ)」 と改称された (日, 日本; 泰, タイ国)。同年、第二次世界大戦で心身共に疲弊した日本に、タイ国から 「象のはな子」 が送られ日本中に勇気を与えた。「はな子」 は2016年まで生き、69歳という長寿であった。


私はタイ国を5回訪問し、アユタヤにも足を運んだ。その時、案内役を買って出てくれたのは、かつての留学生であった。恩に熱い人たちである。日本からタイ国へは飛行機で6時間強掛かり、近いとは言えないが、掛け替えのないアジアの隣人であることを心に刻みたい。




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